哀糸豪竹

「哀糸豪竹(あいしごうちく)」

 

 悲しげな音を出す琴と生き生きとした強い音を出す笛。

 

 

 家庭を持ってみて分かったことだが、夫婦で共に行動をするのは良し悪しである。同時に同じことに取り組むと夫婦揃って体力が減って、お互いに頼りたいときにお互いが頼れないという状況になる。だから基本的に交代しながら生活をする方が良いと思う。

 私が悲しげなうめき声をあげているときに、妻が生き生きと子をあやし、妻が悲しげな異音を喉から放つときに私が子をあやし……。

 そんなギリギリの生活を営む夫婦のマリアージュというかなんというか、基本どちらかがくたばっているので、二人で万全の状態で何かに取り組むというのがなかなかに厳しい。

 

 それだけではない。当然、どちらかがくたばっている間はもう片方は自由時間を謳歌できることになるはずなのだが、そうもいかない。例えば私が子の世話をしてくたばっているときには妻は比較的元気を取り戻し、様々なことに着手できるはずだが、以前も書いたとおり、私は母乳が出そうで出ない。子が「乳を所望する」と宣えば妻は元気を母乳という形で子に与える。逆に、妻が子の世話をしてくたばっているときには私は自分の時間を持つことができるのだが、妻が子育てをしている傍らで遊んでいようものなら白い目で見られることは必定のことである。当然私としては「子育てに参加してるよ!」という雰囲気を醸し出すために至極神妙な顔つきで過ごしているつもりではあるが、大体見透かされて嫌な顔をされるのだ。

 つまり、体力の回復・温存ができるだけで本当の自由を楽しむことはお互いにかなり至難の技なのだ。

 

 上記のことは交代可能な週休日の話である。平日はこうもいかない。

 子育てを経験してきた方にはわかると思うが、職場でしっかりと働き(しっかりと働かない仕事もあるかもしれないが)、疲れた状態で帰宅をすると同じく子育てで疲れた妻が出迎えてくれる。ここに救いはあるのだろうか。それに、子育てと仕事は同じ疲れでも、どこか異質なものを感じる。使う思考回路が違うような感覚がある。仕事をして子育てをしてとなると、脳全体が疲れるような感覚がある。

 

 我々のような家族は常にいつ終わるとも限らないチキンレースのような、耐久レースのような、終わりの見えないマラソンのような生活を送っている。哀糸豪竹なんて生やさしい世界ではない。哀糸哀竹である。

 

 こうやって記事を書いている最中も妻は寝かしつけ、私はブログ執筆しつつもうとうとしている。寝れば良いのに馬鹿なやつだ。