愛多憎生

「愛多憎生(あいたぞうせい)」

 

 愛や恩を受けすぎると、必ず人の妬みや憎しみを買うことになる。

 

 妬まれるほどの愛や恩を受けた記憶がない。いや、それなりに受けてきてはいるのだが、妬まれるほどではないと思う。

とか言うとまたうちの妻は「あなたは恵まれているのよ」と言い出すのだ。

 

 妬みは劣等感という感情とセットになっているものだと思うのだけど、最近は劣等感を覚えることが減ったようだ。30歳を過ぎたあたりから人と比べるのをやめたのか、あるいは自分にそれなりに自信がついてきたのか、もしくは頑張ることを諦めたのか……。

 なんにせよ力が抜けたような感じがする。物事を全て把握することも諦めて、妻に全面的にお願いすることにしてしまったし(もちろんやることはやるけど…)授業も自分が頑張る時間を減らして生徒に頑張らせるようにして、とても余裕ができてきた。

 誰かや何かに劣っているというのは当たり前の状況だけども、優劣というものが実際にきちんとつけられる物事は意外と少ないんじゃないかと思うようになってきたのが、劣等感とサヨナラできた一番の理由かもしれない。

 

 例えば優劣がつくものといえばスポーツ。でもスポーツで身を立てたい訳ではないし、やっていて楽しいだけでも十分貴重なことだ。

 例えば優劣がつくものといえば学力。でもこの年になってしまったら学力というか、もっと専門的な知識や技術が必要だし、仕事的にもそれ以外のキャラクターだったり立場だったりが重要になってくる。生徒との関係性とか。そうなるともう優劣の話ではなくなってくる。

 

 自分のキャラやなにがしかに頼っていい訳ではないのだけど、それでもそこに拠るところが大きいのは否めない。劣等感なんかあるわけがない。それぞれの個性や役目が違うのだから、比較しようがない。数値化できないものは比べにくい。

 

 劣等感といまさら戦っている場合ではないというのが本音だろうか。もうそんなものと戦っている時間などないし、そんな時間があったら睡眠を確保する方が良い。30過ぎてそんなこと考えている奴はかなり生きづらくて大変だろう。

 

 たくさんの恩を受けていると感じていると思うのけど、憎まれているような感じもない。多分、他の人も同じように誰かから、複数の人から恩を受けていて、総数としては同じくらいになっているのかもしれない。同じくらい受けているのなら憎むことも憎まれることもないだろう。

 こないだ卒業式があって、この子たちは恵まれているなと思った。理由は特にない。なんでだろうか。

 なんとなくキラキラしていて、なんとなくこの先が明るい感じがしたからだろうか。あるいは、この先の幸せを祈る人に囲まれて巣立っていったからだろうか。

 

 僕はもう祈る側でしかない。でも別にそれでも悪くはないよな、とは思う。