愛楊葉児

あいようように

 

幼児がネコヤナギの葉を見て金と思い込むことから、浅い教えで満足して、深い教えを求めようとしないことのたとえ。

 

子どもにもありがちだけど、我々大人、特に教員は身につまされる言葉ではなかろうか。

自転車操業になってしまっていれば、すぐに役立つ知識や授業の小ネタについ走ってしまう。その場は良いけど、次の授業に生きてこないのがつらいところだ。単発はよろしくない。

しかし悲しいことにすぐに役立つものを人は求めがちである。我々教員はそういう実学的なものばかりを求める風潮に、強制的にストップをかけられる存在であると思う。もっとこう、内発的動機づけを行うべきだろう。

 

と、思っていた。

 

 

最近読んだ古い本『学ぶ意欲の心理学』には、意欲を高めるためにむしろ学校では外発的動機づけをうまく利用するべきだという話が載っていた。

(ここで全てを説明するのは難しいので、少し語弊があるのだが、)動機づけをたった2種類で説明をつけるのは乱暴で、もっと細分化するべきであるとした上で、「学んだことは役に立つのだ」という実用志向の動機づけも必要であると筆者は述べる。(本当にかいつまみすぎての説明だから筆者が見たら怒りそう)

つまり、実学的な学びだと意識させるのがよろしいと言うわけだ。

 

確かによく考えてみれば「深い学び」に通じるものがあるな。日常生活や社会生活に学んだことを接続していく意識をもつべきであるとのことを文科省リーフレットでも見るし……。

 

でもそれを味気ないなと思う僕のような人間もいるわけで。

 

んん?そもそも実学的な「すぐに役立つ学び」って、「浅い教え」であるような気がするのだけど、「深い教え」とは?

 

教科指導って、意外とそんなに深いことは教えられないのかもしれないな。

文科省の言う「深い学び」の深さとはいかばかりか。