愛別離苦

 

愛し合う者と生別・離別する苦しみや悲しみのこと

 

 

 幸運にも、仲が良い人たちや親密な人たちとは死別していない。人でないものもカウントするならあるが…。

 

 昔、ビーグル犬を飼っていた。名前はハナといって、とても賢くて、食い意地が張っていて、噛む力が強かった。

 子犬のときにはおいでおいでとシャツの中に招き入れて、首の穴から一緒に頭を出して寝たりなんかしていた。散歩は全力で、めちゃくちゃに走り回った。初めての散歩では、田舎に住んでいたのでモグラのミイラみたいなのを咥えて帰ってきていた。暗くて何も見えなかったし、取りあげようとすると、取られまいとして強く噛み、そのたびに「パキィッ」という音が鳴った。毛布の中に潜り込んで寝るのが好きだったが、母は足元が疎かでよく毛布を踏み抜き、ハナはそのたびに踏まれてとにかく警戒心が強くなっていった。数年も一緒に暮らせば毛布をまたごうとするだけで吠え、噛みついてくるようになった。

 家の中に地雷があるようなもので、本当に最悪だった。

 

 ビーグルは犬種で言うと下から四番目の賢さ、つまり簡単に言うと頭が悪いらしい。頭が悪いとテレビに映るものが認識できないという話を聞いたことがあるが、ハナもテレビがよくわからなかった。テレビを映しても音にしか反応しない。そして画面は認識できない。

 それでも賢かったと思う。テーブルの上にある食べ物を取るために椅子を動かし、乗って、まんまと圧力鍋の中にあるカレーなんかを舐め尽くしていた。お腹の張りが見たこともないくらいにパツンパツンで、赤ずきんちゃんに出てくるオオカミのお腹ってこんな感じかな、と思った。

 

 死んだのはもう10年くらい前だ。脳腫瘍。

 脳腫瘍ができて、そのせいで圧がかかって眼球が少し飛び出たような感じになってしまった。

 これだけ読むとものすごく痛ましい感じがするが、目頭の目やにが溜まるところが少し膨れるくらいだった。

 でも、ガンがお腹に転移してしまい、腫瘍の位置が目視ではっきりわかるようになった。手術でとってもらっても他のところに転移しているかもしれないし、脳の中の腫瘍には手が出せなかった。手術で取った乳腺はなんだか嗅いだことのない匂いだった。

 それでも普通に何ヶ月も過ごすことができていた。

 

 

 異変があったのは死ぬ半月前くらい。おしっこを漏らしてしまうようになった。

 そこから診断してもらってガンの進行がもう完全に末期。診断してもらった途端に一気に元気がなくなってしまって、少しずつ走れなくなって、歩けなくなって、立てなくなってしまった。

 安楽死。もう生物として、自分だけで生きられない。安楽死でせめて苦しまないようにしてあげるくらいしかできない。

 

 後悔しているのは、安楽死する前日の夜。

 みんなでハナをたくさん撫でていた。苦しそうで、水もうまく飲めなくて、てんかんのように発作が出て痙攣。おしっこも垂れ流している。苦しそうにクンクン鳴いていて、僕らはそれを見ていることしかできない。

 その時に電気カーペットを敷いていたのだけど、あれって寝返りを打ったりしないと熱すぎることがある。ハナは寝返りを打つ力もなくて、熱くて鳴いていたのだと、鳴き始めて10分くらい経ってから気づいた。最後の夜はきちんと別れの挨拶をしたいと思っていたのに、最期まで本当に締まらない家族で申し訳ない。母もよく尻尾を踏んでいたので何重にも申し訳ない。噛み返していたからお互い様だろうか。最後のポカも噛んで返して欲しかった。

 

 

 死んだ後、すやすやと寝ているようで、でも冷たくて、「モノ」になってしまったようだった。葬式に出たときにも思ったが、死者は「死んだ生物」ではなくて、「モノ」になってしまったように感じる。冷たいからか、死後硬直があるからか。

 

 ハナはどんな風に思って生きてきたのだろう。圧力鍋の中のカレーを全て舐め尽くしたときにはやはり幸せを感じていたのだろうか。もう一度会っておやつをあげたいな。