愛及屋烏

「愛及屋烏(あいきゅうおくう)」

愛憎の情はその人だけでなく、その人に関係するものにまで及ぶ。人を深く愛すればその家のカラスにまで愛おしく思えてくることから。

 

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉もありますが、カラスは流石に無関係すぎやしませんかね……。

 

 よく「こどもが好きで教員を志望してます!(教員になりました!)」と言う人がいますが、なんだかもやっとする発言です。

 それ自体は尊いことのような雰囲気はありますが、果たして現実的であるのか。

 

疑問①

 その「子ども」像は「自分の言うことを素直に聞くかわいげのある子ども」という条件があるのではないか?

 

 単語が大括りすぎるのではないかと思うわけです。言うことを聞かない、口を開けば死ねだのうざいだのと人を傷つけるようなことしか言わない子どもを、保身のために平気で嘘をつくことができる子どもを、好きだと言えるのでしょうか。本当にその覚悟があるのか。

 自分の想定している「子ども像」が、「(都合の良い)子ども」ではないかと疑ったことはないのでしょうか。

 そこまで考えて、なお好きだと言えるのであれば異論はありません。(異論はないが問題は生じそうである。)

 

疑問②

 上記①とも関連しますが、「子どもだから」好きなのでしょうか?

 子どもの中にも「大人」はいるし(逆も然り)、その内なる「大人」も段々と大きくなります。その子が成長して、もう子どもと言えなくなるようなところまできたとき、「好き」の範疇から実際に外れていくのでしょうか?かつて好きだった「子ども」が「大人」になったと感じたときから、その人は好きではなくなってしまうのでしょうか?

 僕自身の考えを述べるのであれば、答えはノーです。感情はそんなに簡単に切り替わらない。

 

疑問③

 果たして本心であろうか?

 これは、自分を定期的に反省しなければとも思うことで、要するに「自分自身にレッテルを貼っているのではないか。」ということだ。

 思い込みが強かったり、自分を規定するのに便利だったりと色んな理由が考えられるが、明文化することで自分という存在を安定させることができる。

 無意識のうちに、あるいは意識してレッテルを貼っているのではないかと僕は思うのですよ。これは「子どもが好き」か否かの問題にとどまらない、さまざまなものに適用できる考え方です。

 たとえば

「私、人見知りなんで〜…」

「僕は早起きが苦手なんです。」

「あたし、バカだからわかんなーい。」

 本当にそうか?孔子だったら「今、汝は画れり。」って言っていてもおかしくないのでは?

 自分が限界を作っているんです。自分が壁を作ってその枠からはみ出さないようにしているだけです。

 

 

 「子どもが好き」というラベルはとても便利です。聖職者としてこれほどまでに適性のありそうな言葉はありません。ウケも良い。

 でも、実際はこんなにハードルの高い言葉はそうそうないとも思います。

 ひねた考え方かもしれませんが、そのくらい言葉の範囲について敏感に察知しておきたいと考えています。

 

 なお、「愛及屋烏」については、教育活動のみに限定して言うと「そんな感情的なのは危険すぎない?もっと冷静にいこうぜ」って感じです。そんな見境なく好いたり嫌ったりな人、怖すぎます。