哀鴻遍野

「哀鴻遍野(あいこうへんや)」

 いたるところに敗残兵や難民がいるさま。「鴻」は大雁のことであり、「哀鴻」とは悲しげに鳴いて飛ぶ雁で、流民の喩え。また、「遍野」は野原のすみずみまでの意。

 

 定期テスト前後はあちこちに敗残兵や難民がいる。僕もその一人で、テスト作成が終わった瞬間は晴々しい気持ちでいっぱいだけれども、ちょっとでも時間が経つと「難易度調整、誤ったか…?」と疑念が立ち昇り、さっきまでの心地よい解放感は失せるわけです。

 生徒の方は生徒の方で教え乞食であったり、捨て教科を作ったりと悪あがきも多種多様である。戦う前から敗残兵の様相を成している。

 僕が中高生の頃はそもそもこんな悪あがきすらしない劣等生であったから、こんな姿を見るたびに頭の下がる思いを持つわけだ。

 大人の僕は、もっと早くから着手すればいいのに、なんて突き放した考え方もしてしまうのだが…。

 

 さて、授業の延長線上に定期テストがあるわけだが、定期テストの結果を見ると自分の授業は負け続きであることがよくわかる。テストの度に精神が磨耗していく。

 

 思えば教員という仕事はとにかくストレスが多い。基本的には減点方式の評価しかないし、上からも下からも横からも軽んじられやすい。自分のポジションや尊厳は自分で守るしかない。

 よく「新卒から先生なんて呼ばれ続けてりゃ傲慢にもなるわ」なんて言われる。しかし教材に負ける。職員室じゃ最低層、末端構成員、雑用係なんて扱い。クラスにいけば生意気な生徒に軽口を叩かれ、少しでも隙があれば容赦なく叩かれる。こんな環境で、気持ちよく傲慢になれるのだろうか?気持ちよく傲慢になるわけがない。

 これは、「自分の身を守るために居丈高に装っているだけ」なのだ。

 偉い気分になったわけじゃない。偉い雰囲気を醸し出して身を守っているのだ。

 僕みたいな腕っぷしも気持ちもそんなに強くない人間があちこちから矢が飛んでくるような戦場に居続けるには、とにかく身を守るための武装をしなければならない。

 そもそも「先生」って呼ばれるだけで傲慢になるか?かつて、聖職者と言われた時代はそうかもしれない。しかし現代においては保護者の方が高学歴、富裕層であるということは普通にあることだ。地域によっては教員が最下層である。「先生」という呼称に高尚な意味なぞないのだ。

 

 随分と悲観的な教員観ではあるが、そんな心持ちの教員もいるのだ。もちろんそんな人間ばかりではないのは確かである。

 見た目も振る舞いもとかく舐められがちな私はなんとか威厳を身につけねばと知識を身につけているところなのだ。忙しさで勉強もままならないところだが。

 

 哀鴻やサンドバックとして生きるには長すぎる人生なので、きちんと自身を守る力をつけて、自信をもって生きていきたいと考える今日この頃である。