愛楊葉児

あいようように

 

幼児がネコヤナギの葉を見て金と思い込むことから、浅い教えで満足して、深い教えを求めようとしないことのたとえ。

 

子どもにもありがちだけど、我々大人、特に教員は身につまされる言葉ではなかろうか。

自転車操業になってしまっていれば、すぐに役立つ知識や授業の小ネタについ走ってしまう。その場は良いけど、次の授業に生きてこないのがつらいところだ。単発はよろしくない。

しかし悲しいことにすぐに役立つものを人は求めがちである。我々教員はそういう実学的なものばかりを求める風潮に、強制的にストップをかけられる存在であると思う。もっとこう、内発的動機づけを行うべきだろう。

 

と、思っていた。

 

 

最近読んだ古い本『学ぶ意欲の心理学』には、意欲を高めるためにむしろ学校では外発的動機づけをうまく利用するべきだという話が載っていた。

(ここで全てを説明するのは難しいので、少し語弊があるのだが、)動機づけをたった2種類で説明をつけるのは乱暴で、もっと細分化するべきであるとした上で、「学んだことは役に立つのだ」という実用志向の動機づけも必要であると筆者は述べる。(本当にかいつまみすぎての説明だから筆者が見たら怒りそう)

つまり、実学的な学びだと意識させるのがよろしいと言うわけだ。

 

確かによく考えてみれば「深い学び」に通じるものがあるな。日常生活や社会生活に学んだことを接続していく意識をもつべきであるとのことを文科省リーフレットでも見るし……。

 

でもそれを味気ないなと思う僕のような人間もいるわけで。

 

んん?そもそも実学的な「すぐに役立つ学び」って、「浅い教え」であるような気がするのだけど、「深い教え」とは?

 

教科指導って、意外とそんなに深いことは教えられないのかもしれないな。

文科省の言う「深い学び」の深さとはいかばかりか。

哀鳴啾啾

あいめいしゅうしゅう

 

鳥や虫が悲しげに鳴くさま。

 

鳥や虫に感情があるとは思わないけど、その鳴き声を楽しげと取るか、悲しげと取るかは人間様次第だと思う。

 

さて、正直言ってすこぶる調子が悪い。

何が悪いってメンタルがヘラっててすこぶる悪い。毎年5月6月と9月10月あたりはグッタリとしてしまう。季節の変わり目だったり、疲れのピークがこのあたりで来るみたいだ。

どうしてこんなにダメな感じになるのか、分析せねばと思うのだけど、教員という仕事自体がなかなか達成感というものを感じさせてくれないことが一つ、単純に体力が持たないことが一つの計二つがある気がする。

 

一つ目は、この学級の半ばという時期で、教育活動真っ只中という状況。生徒が変わるのか変わらないのか、そろそろ兆しが見えてきてもらえるとありがたいのだが…という時期だと個人的には思っている。

全然変わりゃしねぇ。やはりこの世には何らかの「変化を拒む力」が働いているようだ。自分の力不足が原因なのはもちろんそうだが、周囲とも足並みが揃わず、一人でやれることって本当にごく僅かで、これがもう非常に無力感を覚える最大の要因。腐ったみかんではないけど、一部が腐ると連動して腐るんだ。同時多発的に腐るのやめろ。

 

二つ目は、体力のなさ。とてつもなくシンプルかつ最大の問題なのだけど、本当に体力が持たない。仕事には行き帰りの移動時間も含め、12時間以上は持っていかれ、家では子育てやら何やらで疲れ切った奥さんがいて、労ったり、自分も子育てに参加したり、土日は土日で何かしら外に出る用事が毎週あって、マネジメントが20代の頃と同じ方法だと本当にぶっ倒れる。もっと時間的なバッファーが欲しいというか、もっと緩く生活していきたい。

 

もちろん自分の子供も奥さんも可愛くて好きだし、いつでも会いたい。

自分が担当する生徒もそれなりに可愛いとは思っている。でも疲れた。疲れたんだよ。

 

でも一番疲れるのはそこじゃない。職場の大人たちだ。どうしてこんなに問題ばかり起こすんだ。経験年数が上だから何か考えがあるのだろうと思いたいのだけど、明らかに指導力不足だったり、人間性が欠落していたり、なんか、「先生ごっこ」に付き合わされている感覚が拭えない。どうして授業変更にかかわる先生に連絡せずに授業を変えてしまうの?その先生、自分の授業が勝手に減らされててびっくりしてるよ。

講師の先生の授業、勝手に変えてません?それってちゃんと交渉したの?

許可をとって変更しても、どうして時間割の表に反映させないの?というかどうして正しく記入できないの?

 

働き方改革」とか、そんなこと言われても、基本的なことすらできない人たちには何にもできないよ。

もう少し、「大人」がたくさんいるところに身を置きたい……。

 

しんどすぎてどうにもならん。明日は職場に行けるだろうか。

曖昧模糊

 

物事の本質や実態がぼんやりとしてはっきりしない様子。不明瞭なさま。

 

 コロナ陽性者となり、頭がぼんやりとしてはっきりしない感じの日々を過ごした。

 罹患したのは今年の三月。妻と娘がもらってきて、家庭内で感染。昔っから熱が出るとまぁ高温で、ふらふらしてしまう。40度くらいにまで上がると振り切ってむしろ大丈夫って時もあったが、一番辛いのが38度前後あたりで「これから上がるぜ〜!」っていう時が本当にだめ。

 

 ぼんやりとしたのは嗅覚。一度、完全に匂いが感知できない時期があった。娘のうんちおむつすら香らない。

 なぜだろう。この時ばかりはとても嗅ぎたかった。この時だけは。

 

 さて、ぼんやりした人生を歩むのには定評のある私である。コロナにかかったその瞬間だけぼんやりしているわけでもない。一事が万事ぼんやりしているのだから確固とした一貫性がある。

 なおぼんやりしているのは私の母も同じで、入学金の振り込み忘れで浪人したのは何年も経った今でもはっきりと鮮明に覚えている。ぼんやりした記憶に燦然と輝くはっきりとした過去の出来事。そこだけ光が差し込んでいるようだ。

 

 母は朝7時に私を揺り起こし、「ごめん、入学金振り込み忘れた……。もう一年頑張って。」と泣きながら言った。

 なぜこのタイミングで気づくのだろうか。母は午前6時頃に何をしていたんだ。生活リズムがおかしい。

 

 私といえば、普段は7時になんぞ起きない生活をしていたため、何が何だかわからない。人生ぼんやり過ごしている高校生が朝の7時にぼんやりしていないわけがない。こちとら日向ぼっこが好きなんだぞ。

 あー、もう一年かぁ…。と思い、「わかったからもう一回寝ていい?」と返し、ぼんやりした頭をもう一度寝かせてあげることにした。多大なるストレスには睡眠が一番である。

 

 結局、その日は家族みんなで入学する予定だった大学に何度も何度も連絡をしてみたが、規則は規則。入学はできないとのことだった。

 なんだよこの大学!と家族みんなで逆恨みをしていたが、当の本人は割とのほほんとしており、「まぁ仕方ないよな、規則だし。」と受け入れていた。ぼんやりした性格は周りからも穏やかで良いと評判だ。

 

 この件が原因で私は1年間の浪人生活を余儀なくされ、両親は一ヶ月間お互いに口を利かなかった。伝言をするのは一番被害を受けた私である。なぜだ。

 

 この1年間の浪人生活は私の人生にかなり大きな影響を与えることになるのだが、それはまたいつか別の機会に書こうと思う。

愛別離苦

 

愛し合う者と生別・離別する苦しみや悲しみのこと

 

 

 幸運にも、仲が良い人たちや親密な人たちとは死別していない。人でないものもカウントするならあるが…。

 

 昔、ビーグル犬を飼っていた。名前はハナといって、とても賢くて、食い意地が張っていて、噛む力が強かった。

 子犬のときにはおいでおいでとシャツの中に招き入れて、首の穴から一緒に頭を出して寝たりなんかしていた。散歩は全力で、めちゃくちゃに走り回った。初めての散歩では、田舎に住んでいたのでモグラのミイラみたいなのを咥えて帰ってきていた。暗くて何も見えなかったし、取りあげようとすると、取られまいとして強く噛み、そのたびに「パキィッ」という音が鳴った。毛布の中に潜り込んで寝るのが好きだったが、母は足元が疎かでよく毛布を踏み抜き、ハナはそのたびに踏まれてとにかく警戒心が強くなっていった。数年も一緒に暮らせば毛布をまたごうとするだけで吠え、噛みついてくるようになった。

 家の中に地雷があるようなもので、本当に最悪だった。

 

 ビーグルは犬種で言うと下から四番目の賢さ、つまり簡単に言うと頭が悪いらしい。頭が悪いとテレビに映るものが認識できないという話を聞いたことがあるが、ハナもテレビがよくわからなかった。テレビを映しても音にしか反応しない。そして画面は認識できない。

 それでも賢かったと思う。テーブルの上にある食べ物を取るために椅子を動かし、乗って、まんまと圧力鍋の中にあるカレーなんかを舐め尽くしていた。お腹の張りが見たこともないくらいにパツンパツンで、赤ずきんちゃんに出てくるオオカミのお腹ってこんな感じかな、と思った。

 

 死んだのはもう10年くらい前だ。脳腫瘍。

 脳腫瘍ができて、そのせいで圧がかかって眼球が少し飛び出たような感じになってしまった。

 これだけ読むとものすごく痛ましい感じがするが、目頭の目やにが溜まるところが少し膨れるくらいだった。

 でも、ガンがお腹に転移してしまい、腫瘍の位置が目視ではっきりわかるようになった。手術でとってもらっても他のところに転移しているかもしれないし、脳の中の腫瘍には手が出せなかった。手術で取った乳腺はなんだか嗅いだことのない匂いだった。

 それでも普通に何ヶ月も過ごすことができていた。

 

 

 異変があったのは死ぬ半月前くらい。おしっこを漏らしてしまうようになった。

 そこから診断してもらってガンの進行がもう完全に末期。診断してもらった途端に一気に元気がなくなってしまって、少しずつ走れなくなって、歩けなくなって、立てなくなってしまった。

 安楽死。もう生物として、自分だけで生きられない。安楽死でせめて苦しまないようにしてあげるくらいしかできない。

 

 後悔しているのは、安楽死する前日の夜。

 みんなでハナをたくさん撫でていた。苦しそうで、水もうまく飲めなくて、てんかんのように発作が出て痙攣。おしっこも垂れ流している。苦しそうにクンクン鳴いていて、僕らはそれを見ていることしかできない。

 その時に電気カーペットを敷いていたのだけど、あれって寝返りを打ったりしないと熱すぎることがある。ハナは寝返りを打つ力もなくて、熱くて鳴いていたのだと、鳴き始めて10分くらい経ってから気づいた。最後の夜はきちんと別れの挨拶をしたいと思っていたのに、最期まで本当に締まらない家族で申し訳ない。母もよく尻尾を踏んでいたので何重にも申し訳ない。噛み返していたからお互い様だろうか。最後のポカも噛んで返して欲しかった。

 

 

 死んだ後、すやすやと寝ているようで、でも冷たくて、「モノ」になってしまったようだった。葬式に出たときにも思ったが、死者は「死んだ生物」ではなくて、「モノ」になってしまったように感じる。冷たいからか、死後硬直があるからか。

 

 ハナはどんな風に思って生きてきたのだろう。圧力鍋の中のカレーを全て舐め尽くしたときにはやはり幸せを感じていたのだろうか。もう一度会っておやつをあげたいな。

愛多憎生

「愛多憎生(あいたぞうせい)」

 

 愛や恩を受けすぎると、必ず人の妬みや憎しみを買うことになる。

 

 妬まれるほどの愛や恩を受けた記憶がない。いや、それなりに受けてきてはいるのだが、妬まれるほどではないと思う。

とか言うとまたうちの妻は「あなたは恵まれているのよ」と言い出すのだ。

 

 妬みは劣等感という感情とセットになっているものだと思うのだけど、最近は劣等感を覚えることが減ったようだ。30歳を過ぎたあたりから人と比べるのをやめたのか、あるいは自分にそれなりに自信がついてきたのか、もしくは頑張ることを諦めたのか……。

 なんにせよ力が抜けたような感じがする。物事を全て把握することも諦めて、妻に全面的にお願いすることにしてしまったし(もちろんやることはやるけど…)授業も自分が頑張る時間を減らして生徒に頑張らせるようにして、とても余裕ができてきた。

 誰かや何かに劣っているというのは当たり前の状況だけども、優劣というものが実際にきちんとつけられる物事は意外と少ないんじゃないかと思うようになってきたのが、劣等感とサヨナラできた一番の理由かもしれない。

 

 例えば優劣がつくものといえばスポーツ。でもスポーツで身を立てたい訳ではないし、やっていて楽しいだけでも十分貴重なことだ。

 例えば優劣がつくものといえば学力。でもこの年になってしまったら学力というか、もっと専門的な知識や技術が必要だし、仕事的にもそれ以外のキャラクターだったり立場だったりが重要になってくる。生徒との関係性とか。そうなるともう優劣の話ではなくなってくる。

 

 自分のキャラやなにがしかに頼っていい訳ではないのだけど、それでもそこに拠るところが大きいのは否めない。劣等感なんかあるわけがない。それぞれの個性や役目が違うのだから、比較しようがない。数値化できないものは比べにくい。

 

 劣等感といまさら戦っている場合ではないというのが本音だろうか。もうそんなものと戦っている時間などないし、そんな時間があったら睡眠を確保する方が良い。30過ぎてそんなこと考えている奴はかなり生きづらくて大変だろう。

 

 たくさんの恩を受けていると感じていると思うのけど、憎まれているような感じもない。多分、他の人も同じように誰かから、複数の人から恩を受けていて、総数としては同じくらいになっているのかもしれない。同じくらい受けているのなら憎むことも憎まれることもないだろう。

 こないだ卒業式があって、この子たちは恵まれているなと思った。理由は特にない。なんでだろうか。

 なんとなくキラキラしていて、なんとなくこの先が明るい感じがしたからだろうか。あるいは、この先の幸せを祈る人に囲まれて巣立っていったからだろうか。

 

 僕はもう祈る側でしかない。でも別にそれでも悪くはないよな、とは思う。

哀糸豪竹

「哀糸豪竹(あいしごうちく)」

 

 悲しげな音を出す琴と生き生きとした強い音を出す笛。

 

 

 家庭を持ってみて分かったことだが、夫婦で共に行動をするのは良し悪しである。同時に同じことに取り組むと夫婦揃って体力が減って、お互いに頼りたいときにお互いが頼れないという状況になる。だから基本的に交代しながら生活をする方が良いと思う。

 私が悲しげなうめき声をあげているときに、妻が生き生きと子をあやし、妻が悲しげな異音を喉から放つときに私が子をあやし……。

 そんなギリギリの生活を営む夫婦のマリアージュというかなんというか、基本どちらかがくたばっているので、二人で万全の状態で何かに取り組むというのがなかなかに厳しい。

 

 それだけではない。当然、どちらかがくたばっている間はもう片方は自由時間を謳歌できることになるはずなのだが、そうもいかない。例えば私が子の世話をしてくたばっているときには妻は比較的元気を取り戻し、様々なことに着手できるはずだが、以前も書いたとおり、私は母乳が出そうで出ない。子が「乳を所望する」と宣えば妻は元気を母乳という形で子に与える。逆に、妻が子の世話をしてくたばっているときには私は自分の時間を持つことができるのだが、妻が子育てをしている傍らで遊んでいようものなら白い目で見られることは必定のことである。当然私としては「子育てに参加してるよ!」という雰囲気を醸し出すために至極神妙な顔つきで過ごしているつもりではあるが、大体見透かされて嫌な顔をされるのだ。

 つまり、体力の回復・温存ができるだけで本当の自由を楽しむことはお互いにかなり至難の技なのだ。

 

 上記のことは交代可能な週休日の話である。平日はこうもいかない。

 子育てを経験してきた方にはわかると思うが、職場でしっかりと働き(しっかりと働かない仕事もあるかもしれないが)、疲れた状態で帰宅をすると同じく子育てで疲れた妻が出迎えてくれる。ここに救いはあるのだろうか。それに、子育てと仕事は同じ疲れでも、どこか異質なものを感じる。使う思考回路が違うような感覚がある。仕事をして子育てをしてとなると、脳全体が疲れるような感覚がある。

 

 我々のような家族は常にいつ終わるとも限らないチキンレースのような、耐久レースのような、終わりの見えないマラソンのような生活を送っている。哀糸豪竹なんて生やさしい世界ではない。哀糸哀竹である。

 

 こうやって記事を書いている最中も妻は寝かしつけ、私はブログ執筆しつつもうとうとしている。寝れば良いのに馬鹿なやつだ。

  

相碁井目

「相碁井目(あいごせいもく)」

 人の実力は様々であること。

 

 実力とはなんなのか?

 インターネットで検索してみたところ、「実際に持っている能力」と出てきた。インターネットは賢い。

 また、「能力」という言葉がよくわからないなぁと思い、同じく偉大なインターネットに聞いてみた。能力とは「物事をしとげることのできる力」とある。

 ここまでの内容をまとめると、相碁井目とは「人が実際に持っている、物事をしとげることのできる力は様々である」ということになるが、少し長い。もう少しコンパクトにまとめてみると「人が持つ、何かを成し遂げる力は様々である」あたりだろうか。何かを成し遂げるというのは非常に難しく感じられるので、「人によってできることやできないことは違う」くらいまで噛み砕いて原型をなくしてみても良いだろうか。

 しかし現在我が家には生後5ヶ月の天使がおり、此奴は毎日母乳を飲む。妻は天使を産み落としたのでおそらく人外なのだと思うのだが、そこを差し引いてもこの妻と私の間には歴然たる差異がある。

 そう、私は母乳が出ない。

 多少頑張れば出そうなフォルムではあるが、能力として備わってなさそうなのだ。この場合もこの四字熟語の範疇に含めて良いものだろうか……。

 

 私は国語科教員であるから、言葉についての学びを促すことが役目である。しかしどうにも四字熟語は馴染みが薄く、知っているものも多くない。知識不足である。同じ国語科教員の中でも相碁井目だが、特に私は底辺のライン際をきっちりと守っていて、サッカーのゴールキーパーさながらである。乳も出なければ四字熟語も知らない、果たして私の存在意義とはなんなのか。

 

 さて、実力の差に悩まされている方も多くいるだろう。「同じ大学を出ていて、なんだこの差は」とか、「同じような歳なのに、なんであいつが」という恨みつらみを抱いた方は多いのではないだろうか。私なんかもいわゆる劣等感を持ちすぎて鬱々としていた時期があった。おそらく読んでいる方の中にもいるのではないだろうか。

 最近わかってきたが、この、人との違い、「自分は他人よりも劣っている」という思いは軽減できると思われる。

 

 一つ目に、考えてみて欲しいのだが、他人より劣っていて困ることはなんだろうか。ちょっと自分の生活に当てはめて考えてみていただきたい。能力の差以上に「あなたでないとならない」ことの方が多いような気はしないだろうか。

 二つ目に、見えるところだけで評価していないだろうか。人間、誰しも自分のことは自分がよく知っていると思う。一方で他人は、見えるところしか認識できない。気になるあの人や、尊敬を寄せるあの人は家で鼻くそを食っているかもしれない。一面だけで判断すれば、それはかなり綺麗なところしか見えないものだ。当然自分が家で鼻くそを食っていることは自分には見えるわけだから、良い点以上に悪い点も認識せざるを得ないのだ。私の数少ないボキャブラリの中にさえある「隣の芝生は青い人工芝」という言葉は、そういう一面的な見方から生まれた意識ではなかろうか。

 三つ目に、少し真面目な話なのだが、劣等感に苛まれている方は、関わる人間、コミュニティは多様で複数個であるだろうか?関わる人間が少ない、加わっているコミュニティが一つしかないとなれば、自分を測る物差しは減る。そうなれば多面的な見方で自分を見ることは難しい。「サードプレイス」という言葉を知っているだろうか。家庭、職場の他にもう一つコミュニティ(三つ目の場所)を持つと精神的に安定するだとかなんだとか言われている。趣味の場で良い。いろんな人間に会えるし、そこで必要とされる能力も異なる。いろんな能力が複合されて、いろんな人間と関係を結んで、あなたが存在しているのだ。

 人よりも優れた、突出した能力があなたの存在意義を生むのではなく、様々な関係性があなたに存在意義を認識させてくれるのだ。

 

 あなたは、他者と比較して、己の能力の低さに悩んでいるのではなく、能力の低さに起因する、自分という存在の意味のなさ、自分が誰かの下位互換であるという意識に悩んでいるのではないだろうか。

 

 もちろん、そうではない、と考える人もいるだろう。それはそれで良い。自分なりに分析して悩みを解決するしかない。しかし、悩みの出処を誤認する人は多い。認識が深くまで至らなければ浅瀬でチャプチャプする程度のところに当てはまりそうな語彙で説明がつくように取り繕ってしまうからだ。それで上手に説明して、自分はそういう人間なんだ、とラベルを貼ることで面倒を減らしているのだ。

 

 言葉を教える仕事をしているからか、言霊というのはあるように思ってしまっている。言霊という言葉がピンとこなければ、呪い、呪縛、レッテル、そんな言葉でも良い。言葉の通りに認識するのが人間で、言葉が現実に即しているとは限らないと、私は思う。

 実力は様々あるかもしれないが、あなたは数値ではないのだから、特に気にする必要はないのだ。